2019/08

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 以前の坂井田真理郷というテーマはおふざけが過ぎるかと思い自粛しました。現在住んでいる那須には、総本山がちらほらあって僕も出会うべきして来たのか。とは思いませんでしたけれどもね。
 
あくまでも自分のログとして書いていく所存です。ここは変わらず。。。
 

さて、眺望の統一。これは坂井田真理郷を僕の作品が如く、いらないところを削って残った考え方、ないし根本。(作品はいるところを削っていることがほとんどですが、ややこしくなるのでとりあえず。今は見る人の指向性の問題とだけ言っておきましょう。線が抱える矛盾の問題です) 
ということは、僕は世界を一神教で統一する野望を持っている、と言っても過言ではないという訳です。(ガンジー先輩オイラがんばってみるよ!)
自分、あーてすとデスカラ。テヘッとな。こういうとき、アートって言葉は若干便利ですね。
だけど、曖昧すぎる懸念が見受けられます。僕はその理由を、一人称の不在がもたらしたものであると考えています。 要するに、誰にとって、それはアートなのか。
いわゆるモダンアートは、視点を確固たる前提として、作者と鑑賞者との、その焦点の重なりに重きを置いていた。それは、作者の見たもの、考えたことを他者と同じくして共有できるかという問題である。だけど、そこには大きな問題があった。それは、アートであることを疑わなかったことである。つまり、アートはアートたる根拠、歴史が暗黙のうちに了解されていたのである。アートは確かにひとつの様式であると思う。けれども、それはかたちばかりで形式(思考、行為)が蔑ろにされていたのである。例えばそれは、社会にはこういったルールがあるから守ろうねって、鵜呑みにすることと同じである。要するに、何故守らなきゃいけないのかという根拠に説明がなされていない。昔はこうだったから守りなさい、では、依然として、アートにとって一番の命題である、「新しさ」に矮小な差異しか生まれないのである。アートの根本、本来性とは何か。それは現代を分母として生まれるものである。また、現代とは変化の只中を生きることである。昔のものは、だからこそ、現代においてなお、価値あるものとして見られるのは当然である。
 だがしかし、僕が言いたいのは根拠があるかないかという問題ではない。僕は依然としてモダニストである。根拠は既に有る。しかし、再現は叶わない。「私」は常に更新されるからだ。
 
眺望の統一、視点の統一は成るか。
むしろ、それは成されていたのではないか。(同一性が既にあるということではなく、ただ無分別の世界が果てしなく広がっているのではないのか。)
統一は既に成されていたにも関わらず、我々はそれを分化して見ているのだ。
我々は既に差異である。
だからこそ、僕は行為を削るのだコンチクショー。
面白いと思うんだけどなあって思いながらね。