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「他者」っていう概念について触れておきたいと思います。

他者の概念を意識し始めたのは、せっかく出来上がった作品が、作る前から、なんとなく自分の頭の片隅に在ってしまうことに違和を覚えた時からだった、はず。

作品制作の目指すべき出口は、単純に、新しいことを表現することと考えてます。

なので、自分の頭の中に、完成のいめーじのようなものが在ってしまっては、矛盾してしまうぞと、思ったわけですね。 ともすると、心情的にも、本来作り手であるはずの僕も、鑑賞者側に回り込んでみたくなるのです。 さもすると独我論的な孤独感もさよーなら。 そしておそらく、孤独の孤の字もでてこないようーな、囲いのなさがこんにちーは。 作者が無い、というより、もっと無い。 変な言い方だけれども、これがしっくりくる。 

また、頭の中だけでなく、身体にも記憶するという能力があります。 ある刺激に対して、身体が、勝手に反応してしまうなんてことありますね。 あと、パブロフの犬っころのような条件的反射だったたり、ギブソンのアフォーダンスとかなんかも、そう、そう言えるはず。 脳みそが記憶していることだけでなく、あらかじめ身体化されてしまっている記憶もある。脳みそ様が処理するまでも、なかろうも、といった具合の。(これが続き続けてしまえば、とっても退屈ライフになっちゃうに違いない。)

「他者」の概念を扱うということは、この、「あらかじめ身体化された記憶」っていうのを、嫌わなければなりません。 (めんどくさくて、ごめんなさい。)

ここでいう「他者」とは、「私」という対になるような概念の「他者」ではありません。「私」の対として存在する対象としての「他者」は、私の内面的なものを全体にする、世界の広さなんて分かんないくせに、曖昧な限界を設定することを条件にしてから、包括する、見定めてしまうことができてしまうような「他者」のあり方です。 それは、「他者」ではなく、「自我」と言った方が正しいでしょう。

私という領域の中に収まってしまうような「他者」。拘束できてしまう「他者」。

そういった「他者」ではなくて、ここで述べる「他者」とは、「私」の知的感覚からどこまでも、滑り続けて拘束できないような「他者」です。 「私」との関係にも左右されないかのような、独立して存在するかのような在り方をしている絶対的な存在とも呼べてしまいそうな「他者」。 僕はソレを、「分からなさ」の代表として位置づけています。 この「分からなさ」というキーワードを用いるにあたり、特に留意すべきは、「権威」を与えすぎててはいけないことであると思います。 何だか分からない曖昧さに闇雲に権威を与えてはいけない。 当たり前なことです笑 僕の勝手な妄想かもしれませんが、こと、アートという領域に於いてほったらかしにされてる、あまりにも言語化されていない気がして。 いつまでも、これを誰にもふれさせないように、絶対的な権力、それもthe神秘主義的な、として棚上げをしてるような。 特に理由もなく、なんとなくって仕方で。 それはまるで、作品の解釈を終えたら表現の持続さえも息絶えてしまう、なんてことを考えているのかしら?と勘ぐりたくなっちゃう。 ここに思うは、前時代的なものについての批判的な見方ではなく、その遺産のしわ寄せが現代にも漂着している節があると思っているから。 アートにおける曖昧さとは、鑑賞者におけるバックグラウンドの差異、受け取り方の違いが現れるところにこそ重きがあるとは思います。

 社会とアート、日常と非日常、その対となる間柄に照準を合わせたところで、面白いものあるのかな?と思いつつ、それらを対立させたがる外側のシステムを気にしてしまう今日この頃。 曖昧さの根幹をなすものをおざなりにしているような気がしてしまうからこそ、しわ寄せを感じてしまうのかしら。


ですので、僕が扱いたい他者も、「他我」という言い方をする方が親切なのかもしれません。(他我とは何か?この問いかけの持続こそを、絶やさない表現のあり方を探してます。)私ではない私。まるでパラレルワールドのよう。(自我が悪いものだとは言いません。けれどもそれを中心により過ぎれば、相手側の自由を約束しないなんてことにもなりかねません。至極曖昧な言い方になりつつ、神秘主義に陥りやすくなる懸念が現れてくるかもしれませんが、相手側の未来にあたる時間帯へ閉塞感を持ちこんでしまうことにもなりかねない。 長々と書いてますが、これは、中心とは何処に位置すべきかという問題でもあります。 それを、一方的に抱え込んだままでは、変化するものなんて何にもありません。そんな普遍性はいりません。 さらに、そもそも中心は、必要なのかとも問いかけてみるのも面白いかもしれません。 この問いかけは、アーチストの場合、そもそも作品は、必要なのかしら、と、問うことと近似してます。 

 未だ顕在化されていない中心性をつくることに関心があります。)



「私」の対概念として知覚できる「他者」と、独立して自存している「他者」との違いは、相手側の「自由度」という点で想像してみると解釈しやすいです。 相手が「私」の思うところから、はみ出ていく。 私という領域の外。 近年の主題である「意識の外側」とは、代替この辺を指しておく為の僕なりの意思表示です。

作品で「他者」を表現するにあたり、それは、「私」と「他者(あるいは、他者と同じ位置づけをすることができる何らかの情報、他者がモノであるとは言い切れない)」との「距離」を慮ることが重要になってきます。 その存在者との「距離」を知覚するための輪郭は、「不安さ」という強度量によって、見ること、確かめることができると考えています。 例えば。不安であればあるほど、手の届くところまで近づいとかないと、っていうような心理。心配で、ほっとけないぞっみたいな。

「他者」という概念を扱うに当たり、困ることは、語り口が、回りくどくなってしまうことが挙げられます。 作品についてのアプローチも、同じくです。 おかしな言い方ですが、僕の造形の仕方は、どのようにして語るか、という行為とよく似てます。それは、まったくもって言語を造形するかのような手段であると自分では解釈しています。言語化によって、物事に輪郭を与えていく作業という点においても。 また、回りくどさは鑑賞者に難解さをも煽ってしまうことでしょう。 けれども、これは、作品を表現することに当たり、表現の奥行に該当する部分として大事なところです。 難解さとして伝わってしまうのではなく、奥ゆかしさといったポジティブな気の使い方として、表したい気持ちではあります。 怖くないですよー。 

さらに、細かく言えば、僕が望む「他者」の在様を、見つめる相手となりえるだろう「私」という概念は、消失しています。

つまり、「私」からー、と言った「私」という中心性さえ、消失してしまうということです。

自分自信がとりたいコミュニケーションの仕方が、表現をしていくなかで選択することの背景にありそうです。



作品のタイトルを、複数付けるようになりました。

ある日忽然、ふと。

タイトルが一つだけというのは、

いったい、どこの誰ぞが決めたものがぜよ?

アレか?

ヨーロッパ的な呪いか?

って思ったのだす。


展示の際には、情報公開の最低限度みたいなもの(どこまで書いてどこまで話すか、とか。言葉を添えないと、いたずらに神秘性みたいなものがジャイアン化してしまいそうですし、反対に、言語化をいそしみすぎると、今度は、無理矢理な実体化へと進んでしまいそうで。  そのどちらも、意図してるリアリティーを損なってしまう。)をよくよく考えてます。  

タイトルをいくつか持つ、っていう仕方は、面白げかなと、思ったのがこの子から。 


名付けも、減算です。候補から削って考える仕方ですから。  言葉が意味しようとするところを、ハッキリさせるために余分な情報を削っちゃう。 当たり前のことですね。

僕のする造形の仕方は、言語を造形する仕方と非常に懇意的です。(自己イメージですけれども。。。)
言語の意味、ひいてはその示唆するところの意味を根こそいで削ってしまって、言語の物質的な側面、残余だけを残していくかのような感じ。 

 
 意識の外側とは、個展のメインタイトルかつ、近年のmyメインターム。           (フーコーとかドウルーズ読んでます。 外(他者でも可)の概念はとっても面白いです。) 

 意味としては、実在の外側っていった方が良いかもです。 つまりは、僕は実在とよばれるものについての周囲、ないし、システムに関心がある。 故に、めんどくさい作家であると思われても仕方がないでしょう。ええ。 回りくどさがないと現れない直接性ってのがあると思うんだ。 なんというか日本人ぽいやつ。

価値の沈黙というフレーズには、身体性の沈黙、というキーワードをひっかけてます。

こと、彫刻という分野において、作品と定義するところのものが、肉体器官の延長線上ないし、包括できる関係にあるものが殆どであるなと、昔から、思っていて、そういった準拠めいたところからの差異付けを最低限、明確に表しておきたいなという趣旨があります。 ちょーこくのちょの字もでてこないところ。 まるで、関係付ける気も今のところないです。 考え方のないところを徹底的にやりたいし、探したいわけです。 そうでないと、つくりたいものがなくなっちゃう。 とにもかくにも、存在とは何か、こういった命題(古典的準拠)が立ち上がらないところを目指します。

簡潔に言えば、身体軸、作品を構成する中心軸、中心性の忌避、消失。 ひいては、視点および作者性の消失。 絵画領域においては、オールオーバーが近いかも 
ここでいう、軸というのは、ひととなりの塩梅さで構いません。 そもそも、人が表現すること自体、既に塩梅化を中心に行われているはずです。 他を思いやることが条件ですかも。  

〔表現をする〕という言葉自体、そのままそっくりと〔塩梅化する〕と形容しても差し支えはないでしょう。 全くおんなじっす。  そう、形式を塩梅化する、ちょうど良くする、という意味合いにおいて。

つまり、僕は表現を削ってる。


そこんところの、落としどころとして
Out of the this world (この世界を抜け出て) というキーワード。 個人的には、此処ではない何処か、って言い方をしたい。

実際このフレーズはかっぱらってますの。 はっはっはー 

気になるところしかまだ読んでないのですが、ピーター・ホグワーツさんの著書、ドゥルーズの創造の哲学の副題。  因みに、僕がたびたび用いる沈黙も、ジョン・ケージさんから。 安易でも構いません。 だって、しっくりきてしまったんですもの。 あやかりたいですもの。 ゴリヤクゴリヤク。
かっぱらったって言ってしまえば、口数少なくてもネ。 イイデショ。 いじくってからを喋りたい。
 

ほいで何を言いたいのかというと、

未だ、身体が存在していない。

そういうおかしな発言をしたいと考えてます。(念のため、僕は精神一元論者ではナイデス)
(ここには、哲学者は間違っちゃいけないけれど、芸術家は許してもらえないかしら。 むしろ、間違えたいぞっ、間違えるべきだっていう、甚だ残念なことなのかもしれないインスピレーションが背景にあったりします。 理屈はいずれ考えときます。 )


今、思いつく限りでは、身に覚えのある統覚さ加減に、興味を失っているというのが私的な理由としてはありそうです。

身体をこちら側ではなく、意識の支配下における存在物ではなく、向こう側、未だ顕在化されない、未生のところのもの、それこそ、私にとっても他者であるという仕方に収めてしまいたいような。

それらの、距離を表現しよう、見えるようにしようというのが現在の作風と言えそう。
(これが原因してるかは定かではないのだけれども、僕が扱いたい場所ないし空間は、あくまでも形而上の場所、頭の中の空間であって、実際に目に見える場所ないし空間にはこれといって関心が無い。 ものづくりではないと言ったほうがイイノカ。 見えるようにするっていうのも安直で、概念を手伝わせるつもりがある。 くりえいちぶであることに変わりはない。 哲学好きになってるのもこのせい。100%概念化することに努めてみたくて、作品解釈を終わらせた上で、さらに作品を考えるようなところまでもっていきたい。 ある種の絶対性を立ち上げてみたいのだけれども、コレハまた別の機会に。)

身体と精神との繋がりは、未だ無い。 むしろ、無いという真空を境にしている状態、こそを、繋がっていると形容しているのではないだろうか。 これといって決まりが無い。。


精神と身体との間に隔たりが有るか無いかなんてことはなんとも言えない。

けれども、精神と身体をひとつの場所として考えることにおいては、歴然としてあると言える。

人間の気づきとは、パラダイムシフトであるからだ。

物事に気がついた後と気がつかない前では、まるで、様相を異にしている。

塩梅さという軸が変わってしまうことで、 私は 気がつく前の 私を 気がつく前の 私としては 二度と立ち会うことができないからだ。

それまでの、私は私であった経緯、道筋、持続は、気づくという契機を境に、切断されてしまう。 

線から点へと超越を繰り替えすように、経験は次元をまたぐように生成されている。


通常、表現をするということは、その身体性への昇華、プロセスを示唆する、方向付けるもののことを言うと思う。
表現を削ると書いたのだけれども、それが僕なりのいい加減な示唆のつもりである。

何故なら僕はあなたのようにして、それを経験することができないからだ。
つまり、僕はそれを表現するべきではない。
でなければ、表現するべきものなど無くなってしまうのだ。


私が汝であるためには、汝もまた他者になるのでなければならない。

自己や世界はたくさん有ってもいいと思うし、肯定も否定も値踏みするつもりも無い。

ただ、その変化の経緯に立ち会ってみたいなっていう今日この頃。


ベルクソン先生の、創造的進化論みたいなところが落ちなのかも。 榴弾


 ナンセンスな意志のスタイル                  

未視感(誰も見たこともなければ、考えたこともないこと)を目的にすることについての約束事。予めの良し悪しについて予見できてしまうことには挑戦しない。つまり、自分の力で確かめなければ判らないことについてのみ挑戦すること。

作品に対して、身体は反応の仕方を知っていてはならない。それは、やがて訪れる、いや、与えられる出来事でなければならない。他方、作品は経験から、あるいは、行為から、逃げ出す出来事でなければならない。芸術家としての立場、権威、説得力さえも、脅かされるのでなければならない。後退するのでなければいけない。つまり、自作についての不安を完全に消し去ってはいけない。それは、さながら自らが消え去ることに徹底して努めることによって示されるのでなければならない。くれぐれも、これは、禁欲的な行いではなく、表現者にとっての大義の一つである。何故なら、そうしてやっと自由(独立自存の容態)になれるのだから。

未視感は、私(見る人)と石との関わり方、その埒外、〈意識の外側〉に位置していることに疑いはないはずだ。であるならば、私が選ぼうとする目的、あるいは現象から、必ず失敗をするのでなければならない。失敗との出会いによって、そこには、ちょっとした切れ目のようなものが立ち上がる。それは判らなさを見通すことができる契機に違いない。その調子を絶えず引っ張りながら、見ようとするコトについて、およそ隠されたかのような第一義的性質(潜勢力・例えば、土に埋まって依然、見ること、知ることの叶わない種子の可能性)を掘らないで、そのままの状態で、ゆっくりと確かめながら暴いていく。見えるようにしていく。表象(私にとって〜であること)が失われているのであれば、僕は自分の存在に於いての説得力を台無しにしつつも、世界の側の潔白を証明することができるだろう。何度でも、何度でも、何度でもー 世界への解釈は一向に解けることを知らないはずだ。

他者とは何か? アートとは何か? 例えば、そういった具合の問いを常に新鮮な状態(宙吊りの状態)に保つこと。 ‐それが現在における僕の沈黙の思想です‐  not yet relation                               存在をアポステリオリ(後天的)な出来事として認める覚悟があるのであれば、漠然さながらの沈黙は先立ち。それに向き合うことが許される出来事なのであれば、初めて関係はつくられるのでなければならないだろう。

沈黙とは消滅(存在)に先立つ不在(虚構のリアリズム)である          ‐僕は出会い方から問い直したいのです‐                   絶えず反復し ほのかに ゆったりと 震えるように  

                       2015年5月吉日 坂井田武志